合唱団について

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歴代の指揮者

初代 梅島 弘先生

隣町のせせらぎ合唱団の活動に刺激された芽室の進歩的なご婦人達が集まって「コーラスって良いね」「私たちにもできるかしら」ということで、全ては始まった。・・・ 当時芽室中学の音楽の先生として着任間もない梅島先生に白羽の矢を立て指導をお願いして「やまなみコーラス」を発足させてしまった。 発足当時は10名ほどのメンバーで合唱活動以外にも多忙な活動をしている人もいて10名そろって練習することが困難で、時には2~3名で合唱にならず、喫茶店に直行することも再三あったようだ。 それにもかかわらず先生はいやな顔を見せずに付き合ってくれ、2年後の49年にはついに第1回の発表会を成功させた。 52年、音更中学に転勤されるまでの5年間、定期演奏会のほか、札幌交響楽団との「第九」帯広公演に参加したり、地元長岡社中の琴の発表会に賛助出演するなど、和気あいあいとした中でも多彩な活動を続けてきた。 草創期の“やまなみ”にとっては温厚で根気強く指導してくれた先生は、まるで話のわかとる兄貴のような存在で、合唱活動の楽しさを十分あじわわせていただいた恩人である。 現在は、教職を引退され、帯広市で奥様と仲睦まじく過ごされながら、趣味の写真と旅行で人生を楽しんでおられる。

2代目 森田広之先生

梅島先生の転勤で危機に陥った「やまなみ」を救ってくれたのは、芽室高校の音楽教師として生徒の合唱部の指導をしていた森田先生だった。
先生は声楽専門で、せせらぎ合唱団で歌いたいという希望から芽室高校に赴任してきたとのことで、すでにせせらぎはテナーのソリストとしてステージに立っておられら。やまなみの“おばさん達”が誠心誠意お願いし引き受けていただくことが出来た。
先生の熱心な指導によって仲間達も次第に増え、翌年には合唱連盟にも加盟し、合唱祭の参加と毎年の定期演奏会を成功させた。その結果、先生の熱意と団員の願望が結実し、遂に55年混声合唱団の「やまなみ合唱団」と名称を変更した。これでますます多面的本格的合唱活動を続けることができるようになった。
昭和56年には、芽室中央公民館落成記念の合唱団創立10周年記念の演奏会や、清水町で開かれた「中央芸術祭合唱部門」などにも参加し貴重な経験をしたものだった。特に先生は、芸術家らしく繊細な神経の持ち主で、ようやく集めた男性団員を一人も逃すまいと気を使っておられるさまは、痛々しいほどであった。あまり上手とは言えないジョークにも男性団員は一応つきあって笑ったりしたものだったが、一部女性団員からはヒンシュクをかうこともあたようだ。
そんな楽しく充実した合唱活動に、またまたピンチが訪れた・・・。森田先生が札幌のほうへ転勤されることになったのだ。
先生の後任の音楽の先生は吹奏楽が専門で、地域のコーラス指導は一切しないとのことで、3月から4月にかけて、我々はまるで路傍に捨てられた孤児のような心境になってしまった。それほど先生を頼りきっていた合唱団だったわけである。
その後、先生は大事な節目のときには応た援に来てくださる。現在は、風連高校の校長先生で、簡単には来て頂くわけにはいかない事になってしまった。

3代目 朴谷 正先生

捨てる神あれば拾う神があるのが世の中。絶体絶命の窮地を救ってくれたのが当時最も若くて十勝の指導主事に抜擢されて着任したばかりの朴谷先生だった。
先生は旭川の教育大学付属小学校に勤められ、少年少女合唱団を率いて全国大会で好成績をおさめたり、旭川の混声合唱団の指揮者としてアメリカやロシアに演奏旅行をしたり合唱界ではすでに著名な方であった。教育実践者としても高く評価され指導主事に抜擢されたのだった。
たまたま合唱団に高校時代、合唱部で先生の先輩に当たる人がいて、デパートでばったり出会ってしまったのが幸運で指揮をお願いすることができた。
新米指導主事として超多忙の中、6月の合唱祭までという約束であった。
・・・が、約束はあくまでその時の約束で終わり、結果的に先生が転勤になるまで拝み倒して指導してもらってしまったのだった。誠に幸せな3年間であった。
先生はベテランの小学校の先生だけあって、どんな団員でも見捨てない。どんな外れた音を出しても睨んだり、どなったりしない。考えると随分気の長い人だったのだろうか。怒られた記憶はまるでない。上手く歌うと大袈裟に誉めてくれて、いつの間にか団員全員が「やまなみ合唱団はすっかり上手になった」ような気分にさせられてしまったのだった。そんな気分でのびのび歌っていると力以上のものが出せるときもあって、「豚もおだてりゃ木に登る・・」こういうこともまんざらではなかった。
先に教わって間もなく「仲間を増やし、熱心に頑張ったら大中恩さんか中田喜直さんを呼んであげてもよい」と言われた。始めは半信半疑であった。ところが先生は東京出張の折りに中田先生のところへ出かけ話を進めてくださっていたのだ。
そして遂に、60年の1月音楽の神様のような中田世先生を迎えて演奏会を開くことができた。550席ほどの中央公民館に930人を押し込んで文句ひとつ言わずに演奏会をやってしまったものだった。
我々にとっては、この3年間、毎日が充実して楽しかったが、先生にとっては超多忙の激務の中、どんなに大変だったろうかとちょっぴり反省しているとことである。
その先生は各地の教育局の局長などを勤められて現在は郷里旭川の養護学校の校長先生として活躍されている。

先生方へ・・・ ご指導ありがとうございました。これからも、どうぞ、よろしくお願いいたします。

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